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鄭淳哲
(1901~195?)
東学2世教祖の崔時亨の外孫でもある鄭淳哲は忠北沃川郡、青山面校平里で生まれ、方定煥、丁炳基などと共にセクトン会を組織し、1929年童謡作曲集「葦笛」を発行した。
国民童謡「チャクチャックン」を作曲した鄭淳哲は「半月」の尹克栄、「オッパセンガク」の朴泰俊、「鳳仙花」の洪蘭坡などと1920年代の韓国を代表する童謡作家であった。東学2世教祖の崔時亨の外孫でもある鄭淳哲は忠北沃川郡、青山面校平里で生まれ、方定煥、丁炳基などと共にセクトン会を組織し、1929年童謡作曲集「葦笛」を発行した。これに収録された「私たちの赤ん坊行進曲」(チャクチャックン)は当時にも大人、子供皆がよく歌った童謡だ。終戦後に作曲した「卒業式の歌」も全国民の歌になった。
鄭淳哲は1930年代には鄭寅燮、李軒求などと共に緑陽会という童謡童劇団体を作って「セクトンチョゴリ」、「白雪会」、「エミレの鐘」、「案山子」などの童劇も発表した。特に、方定煥と身近に接して初期子供運動を導き、童謡運動の先駆者であった。それでも国内でまともに評価されなかったのは、朝鮮戦争の時に北朝鮮に拉致されたためであり、その間のすべての行跡が埋没したのである。
本貫は延日で、子供の時の名前はブンダプで、字は星春である。青山で普通学校に通っていた鄭淳哲は学校を中退して家を出て、沃川駅で貨物列車にこっそり乗ってソウルへ行った。以後東学3世教祖である孫秉熙の配慮で普成中学校に入学し、金起田、方定煥などの主導で結成した天道教少年会に入会して活動した。天道教青年会が月刊誌「開闢」を創刊して女性運動、農民運動、体育運動などを展開しながら大衆を啓蒙するのに先立ち、その傘下団体の少年会は1923年3月から月刊「オリニ」を創刊して少年啓蒙運動を主導した。天道教少年会のこの運動は韓国で初めて始まった子供文化運動と子供人権運動だった。
鄭淳哲が方定煥と共に子供運動団体の「セクトン会」を創立することに参加したのは共に留学中である時の1923年だった。
「セクトン会」は1923年3月16日に発足して、5月1日に方定煥を中心に鄭淳哲、尹克栄、馬海松などが加入してこの日を子供の日に制定した。尹克栄とは日本留学時代に共に過ごし、貧しい状況でも東京音楽大学に通って音楽の勉強を続けた。
「オリニ」雑誌に子供たちが歌う創作童謡を作曲して発表し、普及するのに先立った。東京留学を終えて国内に帰ってきてからもソウル慶雲洞の天道教大教堂を中心に各種子供運動を展開した。童謡作曲集1集「葦笛」には「チャクチャックン」をはじめとして「カササギよ」、「夏の雨」、「木の葉の船」、「葦笛」などが収録されている。現在まで確認された鄭淳哲の歌は雑誌「オリニ」に発表された「ヒョンジェビョル」(1923)をはじめ、朝鮮日報に発表された「子守歌」(1928)、尹石重が作詞して鄭淳哲が作曲した「卒業式の歌」(1948)まで36曲である。この他にも「朝鮮童謡百曲集」(1946)上巻に収録された「田舎の夜」、「アギビョル」、「竹馬の友」などを合わせれば40曲余りに達する。
鄭淳哲は1931年から34年まで京城保育学校に在職し、1939年から41年まで二回目の音楽の勉強をしに東京に行った。1948年にはソウル誠信女子高で教鞭生活を開始した。在職当時のニックネームは「韓国のベートーベン」であった。誠信女子高在職時に朝鮮戦争が勃発し、学校長は避難して鄭淳哲に学校を任せると、学校に一人で残っていた鄭淳哲は人民軍が後退した9月28日北朝鮮に拉致されたと伝えられる。家族たちは9月29日を忌日に決めて毎年法事を行っている。北朝鮮の音楽史でも鄭淳哲は重要な童謡作家として扱われている。
鄭淳哲は1930年代には鄭寅燮、李軒求などと共に緑陽会という童謡童劇団体を作って「セクトンチョゴリ」、「白雪会」、「エミレの鐘」、「案山子」などの童劇も発表した。特に、方定煥と身近に接して初期子供運動を導き、童謡運動の先駆者であった。それでも国内でまともに評価されなかったのは、朝鮮戦争の時に北朝鮮に拉致されたためであり、その間のすべての行跡が埋没したのである。
本貫は延日で、子供の時の名前はブンダプで、字は星春である。青山で普通学校に通っていた鄭淳哲は学校を中退して家を出て、沃川駅で貨物列車にこっそり乗ってソウルへ行った。以後東学3世教祖である孫秉熙の配慮で普成中学校に入学し、金起田、方定煥などの主導で結成した天道教少年会に入会して活動した。天道教青年会が月刊誌「開闢」を創刊して女性運動、農民運動、体育運動などを展開しながら大衆を啓蒙するのに先立ち、その傘下団体の少年会は1923年3月から月刊「オリニ」を創刊して少年啓蒙運動を主導した。天道教少年会のこの運動は韓国で初めて始まった子供文化運動と子供人権運動だった。
鄭淳哲が方定煥と共に子供運動団体の「セクトン会」を創立することに参加したのは共に留学中である時の1923年だった。
「セクトン会」は1923年3月16日に発足して、5月1日に方定煥を中心に鄭淳哲、尹克栄、馬海松などが加入してこの日を子供の日に制定した。尹克栄とは日本留学時代に共に過ごし、貧しい状況でも東京音楽大学に通って音楽の勉強を続けた。
「オリニ」雑誌に子供たちが歌う創作童謡を作曲して発表し、普及するのに先立った。東京留学を終えて国内に帰ってきてからもソウル慶雲洞の天道教大教堂を中心に各種子供運動を展開した。童謡作曲集1集「葦笛」には「チャクチャックン」をはじめとして「カササギよ」、「夏の雨」、「木の葉の船」、「葦笛」などが収録されている。現在まで確認された鄭淳哲の歌は雑誌「オリニ」に発表された「ヒョンジェビョル」(1923)をはじめ、朝鮮日報に発表された「子守歌」(1928)、尹石重が作詞して鄭淳哲が作曲した「卒業式の歌」(1948)まで36曲である。この他にも「朝鮮童謡百曲集」(1946)上巻に収録された「田舎の夜」、「アギビョル」、「竹馬の友」などを合わせれば40曲余りに達する。
鄭淳哲は1931年から34年まで京城保育学校に在職し、1939年から41年まで二回目の音楽の勉強をしに東京に行った。1948年にはソウル誠信女子高で教鞭生活を開始した。在職当時のニックネームは「韓国のベートーベン」であった。誠信女子高在職時に朝鮮戦争が勃発し、学校長は避難して鄭淳哲に学校を任せると、学校に一人で残っていた鄭淳哲は人民軍が後退した9月28日北朝鮮に拉致されたと伝えられる。家族たちは9月29日を忌日に決めて毎年法事を行っている。北朝鮮の音楽史でも鄭淳哲は重要な童謡作家として扱われている。