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全湜
(1563 ~ 1642)
本貫はオクチョンにあり、字は浄袁、号は沙西である。
ジョンペンリョンの兄弟の曾孫で、ヨリムの息子である。オクチョンで生まれた。ユソンリョン・ジャンヒョングァンの下で学んだ。1589年(先祖 22)には、進士試験に合格し、1592年(先祖 25)、 壬辰の乱が起きると、義兵を集め、敵を退けるのに功勞を立てた。また、キムイッナムの推薦で、ヨンウォル道の察訪にもなった。
1603年(先祖 36)に文科に合格したが、クァンヘグンの実情を見て、官職を諦めた。その後、帰郷し、ジョンギョンセ ・イジュンと共に、自由気ままにあちこちの名山大河を訪れながら、道義を磨いた。この時の彼らを、人々は三老と呼んだ。 仁祖反正があった後に、彼は、弘文官 教理になった。その後、礼曹正郎 兼 記注官 知製教を執り行ない、副修撰・ギョリ・経筵にも参席した。そして、玉堂に入り、教理典籍・帳籍を歴任した。
1624年(仁祖 2) イグァルの乱が 起きると、太僕寺定で王に仕え、乱を避け、天安にまで行き、執義で、 元首ジャンマンの軍事行動がいい加減なので、敵に機会を与えてしまったと、罪を論述し、故郷に帰った。その後、大司諌・副提学に補職されたが、病気のため辞退した。
1636年(仁祖 14) 丙子胡乱が起きると、義兵を集めて、敵と 争った。1642年(仁祖 20) 知中枢府事 兼 同知経筵春秋館使になり、ついで、大司憲として補職されたが、しなかった。この世を去った後、左議政に贈職され、諡号は忠肝である。オクチョンのモックタンヨン堂・サンジュンイの白銅書院に享祀されている。
1603年(先祖 36)に文科に合格したが、クァンヘグンの実情を見て、官職を諦めた。その後、帰郷し、ジョンギョンセ ・イジュンと共に、自由気ままにあちこちの名山大河を訪れながら、道義を磨いた。この時の彼らを、人々は三老と呼んだ。 仁祖反正があった後に、彼は、弘文官 教理になった。その後、礼曹正郎 兼 記注官 知製教を執り行ない、副修撰・ギョリ・経筵にも参席した。そして、玉堂に入り、教理典籍・帳籍を歴任した。
1624年(仁祖 2) イグァルの乱が 起きると、太僕寺定で王に仕え、乱を避け、天安にまで行き、執義で、 元首ジャンマンの軍事行動がいい加減なので、敵に機会を与えてしまったと、罪を論述し、故郷に帰った。その後、大司諌・副提学に補職されたが、病気のため辞退した。
1636年(仁祖 14) 丙子胡乱が起きると、義兵を集めて、敵と 争った。1642年(仁祖 20) 知中枢府事 兼 同知経筵春秋館使になり、ついで、大司憲として補職されたが、しなかった。この世を去った後、左議政に贈職され、諡号は忠肝である。オクチョンのモックタンヨン堂・サンジュンイの白銅書院に享祀されている。