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趙憲
(1544 ~ 1592)
本貫は 白川であり、中宗39年(1544)6月28日、キンポ郡ソガムジョン里で、父 ウンジと、母 チャ氏 との間に産まれる。
字は汝式(ヨシク)、号は重峯(チュンボン)・トウォン ・フユルである。壬辰の乱の時、義兵長として活躍したことから、諡号を文烈(ムニョル)いった。1565年(明宗 20)、成均館に進学し、24歳の時、文科に合格し、少しの間、校書館の副正字職に就いていたが、その後すぐ、ジョンジュ、パジュ、ホンジュの教授を歴任した。朝憲は、パジュモクの教授であった時、ソンホン、イイと 交流をした。これにより彼は、後に西人に指目され、彼の生涯に大きな影響を及ぼした。
1572年(先祖 5)、校書館の正字としていた時、王がお寺で香をあげるのに反対して解職されてからも、 すぐ著作に登用された。1574年(先祖 7)、聖節使であるパク・フィリップに付いて、中国の明へ質正官として行ったりもした。
その後、戸曹・礼曹の佐郎監察を経て、トンジン縣監になったが、罪人を杖殺した罪で弾劾され、2年間、ブピョンに流された。1581年、工曹佐郞・全羅道 道士 ・宗廟書領を執り行ない、1582年、親の奉養のため、ボウンの県監に移った。1586年、コンジュの提督官になったが、東人がイイ・ソンホンなどに 対して追罪しようとし、これに反対する万言疎を奉納し、故郷であるオクチョンに帰った
壬辰の乱が起きると義兵大将 になって、気概あふれていた ジョホンは、49歳の時、遂に クムサン原野で、壮烈な死を とげた。趙憲の亡骸は、オクチョンに移されて葬礼を執 り行ない、同年12月に、ムゲ のソンホンの上訴によって、 ジョジョンでは嘉善大夫吏曹参判 兼 同知経筵春秋館 義禁府事の官職を追贈し、壬辰の乱が終わった後は、宣武原従一等功臣を与えられ、彼の父親と共に、吏曹判書に任命された。
彼の墓地は、沃川郡 安南面 陶農里 にある。1656年、神道碑を建てた。このとき、清陰 キムサンホンが文を作り、同春堂 ソジュンギルが字を書いた。オクチョンの表忠寺、クムサンの星谷書院、ボウンの象賢書院などで、彼の忠節を仰ぎ、祭享しており、クムサンには碑が建てられ、七百義塚がある。彼の著書としては、<重峯集>・<重峯東還封事> がある。彼は、コギョンミョン・キムチョニル・クァクチェウと 共に、壬辰四忠臣のうちのひとりだ.
1572年(先祖 5)、校書館の正字としていた時、王がお寺で香をあげるのに反対して解職されてからも、 すぐ著作に登用された。1574年(先祖 7)、聖節使であるパク・フィリップに付いて、中国の明へ質正官として行ったりもした。

壬辰の乱が起きると義兵大将 になって、気概あふれていた ジョホンは、49歳の時、遂に クムサン原野で、壮烈な死を とげた。趙憲の亡骸は、オクチョンに移されて葬礼を執 り行ない、同年12月に、ムゲ のソンホンの上訴によって、 ジョジョンでは嘉善大夫吏曹参判 兼 同知経筵春秋館 義禁府事の官職を追贈し、壬辰の乱が終わった後は、宣武原従一等功臣を与えられ、彼の父親と共に、吏曹判書に任命された。
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